神戸名物明石焼いかなごのくぎ煮の販売。イベントや百貨店出店情報も。明石焼濱
明石焼濱
 
明石焼 誕生秘話
本場明石では「玉子焼」とも呼ばれ そのルーツはいくつか

あるようですが例えば一つ「小話風」にご紹介しますと・・・・

江戸時代にまでさかのぼりまして「天保年間」

十一代将軍徳川家斉の頃

「南総里見八犬伝」が刊行されまして

20年ばかり経った頃で・・・・「大塩平八郎の乱」なんかも

あった時代でございます。
お江戸のとあるべっ甲細工師が

何の為だか聞いていませんが

はるばる明石にきておりました

明石の浜も少々荒れる 寒い冬の日

何の為だか聞いておりませんが

着物の袖に鶏卵を入れて ぶらり歩いておりますと

何かの拍子に袖を「コツン」とやってしまします

「おや大変だ 急いで宿に帰ろう」
明石焼誕生秘話
しかしいくら急いで帰っても割れた卵の使い道などありません

部屋で帯を解きながら「もったいねぇ事しちまったなぁ」などとボヤキながら

べったり汚れた着物の袖をよくよく見ると

「こりゃどうだい 白身の辺りが乾いちまって 袖の中がパリパリだぁ」
誕生秘話

それはまるで接着剤の様に張り付き

袖の生地まで毛羽立ちそりゃもう厄介でございました

しかしべっ甲細工師は何やらピーンときたようで

「ワッハッハァーこりゃ面白い面白い!」

ひとり部屋の一室で笑い転げておりました

そこへ部屋の主人が不信に顔をのぞかせるので

慌てて事の次第を話して聞かせます

「これほど強力で簡単に引っ付くノリは

見た事ねぇ!」

「ノリ・・・・ですかぁ」

「この発見は いずれ郷土にちなんで名付けよう!」

そんなこんなで早速卵が用意され 

研究が始まります

後に「明石玉」というガラス玉を作り

当時高価な珊瑚の代わりとして

低価格の華やかなかんざしを作り上げるのです

その時「明石玉」を細工するのに使われたのが

卵の白身の「接着力」だそうで

はてさて 残った黄身の行方なのですが・・・・
誕生秘話

ここからは明石焼の出来るまでを 簡単にまとめましょう

卵の黄身には もちろん「接着力」などありませんので

美味しく食べる調理法がいくつも考えだされた事でしょう

中でも一番シンプルなのが「玉子焼き」

だけど黄身だけ焼いたら少しパサパサしませんか?

そこで「ふんわりもちっ」と工夫され

「つゆでスルッ」と暖まる明石焼が誕生するのです


ここで第一ミステリー「誰がタコを入れたの?」

当時の事を書き記したものはありませんが

兵庫県は「赤穂浪士」でも有名な「塩」の産地です

この「塩」と言うのがまだまだ高価な時代・・・・

生地に塩味を重ねる為 明石では庶民が一般的に作り置いた

「干物のタコ」が登場したのかもしれません

さて第二ミステリー「なぜ明石焼は玉子焼きと言うの?」

地元明石で定着した玉子焼きは「明石流の玉子焼き」ですが

「名物」として全国に広まる時その土地にちなんで名付けられ

シンプルに「明石焼」といきたいところなのですが

明石にはもっと歴史の古い 焼き物・陶芸品として知られる

「明石焼き」があります

「玉子焼」「明石焼」「たこ焼き」と呼び方も多様な訳です


そして第三ミステリー「なぜ明石焼は斜めに傾いた板にのってる?」

本来「飾り板」はお盆や器がデザインされた物なのです

熱いので冷ます必要もあったのでしょうが

名物として全国に広まる過程で工夫された様です

現在では「レンジ対応」なんて流行にも

ついていかなければなりません

地球の環境を考えると 心苦しい事なのですが・・・・



 
濱の味の歴史

濱の味の歴史

濱の明石焼は明石の魚棚市場できたえられました

そこにはたくさんの暖かい出会いがあったそうです

先代の「おやっさん」濱田光輝氏は頑固な職人

奥様の「おばちゃん」安紀子氏は働き者で商売人

夫婦のコラボでスタートしたのは1973年(昭和48年)「たこ焼」でした

以降「濱の明石焼」を育て 1997年(平成9年)に息子の光一氏にまかせ

現場を引退されるまで 努力を惜しまず「働きまくった」そうです


そもそも「神戸のたこ焼き」は明石に近い事もあり

おだしで食べることも普通に受け入れられており

「ソース&だし」を注文するお客さんも少なくありません

そんなニーズに応えようと ソースにだしを加えて

「だしソース」の開発も試みられておりました そんなある日

「明石焼をすればいいのに・・・・」と言う知人の一言に

ここまでくれば明石焼もいける!と考えたそうです

将来神戸に店を構える夢を持っていたおやっさん夫婦は

「濱の味」を完成させる為 材料の配分や卵の量のバランスを

1から何度も改良し 道具や焼き機まで別注しました

大事なタコも大きさからゆで加減まで吟味し

「これでどうだぁ」と完成させた「濱の味」は

なんと生地にだしの風味を加え「つけだし無用の明石焼」だったのです


おやっさん夫婦がここに行き着いたのには理由がありました

当時「明石の魚の棚」で週に2,3回出店を出し

明石焼の伝統を知る 地元の方や

淡路や四国からフェリーでやって来る方に

いろんな意見を聞きながら開発・改良したのです

例えば 買い物をしながら食べたいとか

おやつ代わりに簡単に食べたいけどつゆを暖め直すのが手間だとか

買い物を終えてフェリーで明石焼を食べると

どうしてもつゆが先に冷めてしまってるそうで

だしにつけなくてもだしの風味が保たれた

本来の「玉子焼」と変わらぬ美味しさを追求したのです


さてそんな「濱の味」が完成し魚の棚でも受け入れられた頃

地元神戸で念願だった「明石焼濱」の開業を果たし

「濱の味」と相性のいい「つゆ」の製作にかかりました


「最後に残ったつゆをコクッと飲み干すくらいが丁度いい」と

あっさり味で香りの良いシンプルなつゆに仕上がりました

器や板を新調するのにもあれこれこだわって厳選したそうです

おやっさんは「目で舌で楽しんで頂く」事を第一に考えてきました

そんなおやっさん夫婦に「濱田はん 百貨店に出店しませんか?」と

明石魚の棚青年会の皆さんが声をかけてくれたそうです


なんと兵庫県の物産協会や観光連盟が

百貨店を中心に全国的に展開していた「明石魚の棚まつり」のイベントに

一緒に行こうと誘ってくれたそうです

「明石魚の棚まつり」に「明石焼」がないのは

寂しいと言う声があったのと

魚の棚の明石焼屋さんは移設可能な道具を

持っていない事もありました


百貨店によっては焼きたてを食べていただく為の茶席を設けてくれる所もあり

おやっさんにとって全国の百貨店で実演販売をするなんて夢の様な話でした

コツコツやってきたおやっさん夫婦に

次から次へ百貨店から問い合わせが入り

息子の光一氏が「出張部隊」として

全国を駆け回ることに・・・・


こうしてたくさんの暖かい出会いがあって

「明石焼濱」の味が完成した事を

おやっさんは今も感謝しています

その「思い」と「頑固なこだわり」を背負い

息子の光一氏(現在社長)は

今も全国を駆け回っています